かつて鍵っ子だったアンチKeyによる鍵ゲー奇跡論 〜「Kanon」から「智代アフター 〜It’s a Wonderful Life〜」まで〜
- 出版社/メーカー: KEY
- 発売日: 2004/11/26
- メディア: DVD-ROM
- 購入: 5人 クリック: 56回
- この商品を含むブログ (39件) を見る
- 出版社/メーカー: KEY
- 発売日: 2005/04/08
- メディア: DVD-ROM
- 購入: 4人 クリック: 5回
- この商品を含むブログ (25件) を見る
- 出版社/メーカー: KEY
- 発売日: 2008/02/29
- メディア: DVD
- 購入: 9人 クリック: 223回
- この商品を含むブログ (63件) を見る
智代アフター ~It's a Wonderful Life~ 初回特典版
- 出版社/メーカー: KEY
- 発売日: 2005/11/25
- メディア: DVD-ROM
- 購入: 1人 クリック: 154回
- この商品を含むブログ (68件) を見る
始めに
Keyと言えば奇跡、奇跡と言えばKeyと言われるほどKeyと奇跡は密接に関わりを持っています。
しかし、これまでKeyが作中で描こうとしたテーマは単純に「奇跡」の一言で括れるのかというのがこのエントリーの主旨です。
なお、記事のタイトルで触れている私がかつて鍵っ子で今はアンチKeyだという事実は、エントリーの内容とはあまり関係ないような気がします。
まぁ「どちらの立場も経験してるよ」的な意味合いを感じていただければ、と。
もう一つ付け加えると、リトバスに関してはあまりのつまらなさに途中で投げたので語れません。
あと「ゆのはな」のネタバレも含んでいるようないないような……。
それでは気を取り直して、どうぞ。
導入
私が何故今さら鍵ゲーの奇跡について語りたくなったかと言いますと、先日このサイトを整理していた時に読み返した「ゆのはな」に関する記事が発端です。
そもそも奇跡とはどうやって起こすものなのか?
おとぎばなしで奇跡の代償として用いられるのは、普通は、心か命か時間か記憶。
どれもが目には見えないが、ファンタジーにおける共通通貨。
けれども、よくよく考えてみると、これらはどれもが失うには辛すぎるものばかり。
失ってしまうとどうにもならないものばかり。
そして、最後の最後で、失ったものを何故か“奇跡”で取り戻すという不思議。
代償もなしにどうやってこの“奇跡”を起こしているのだろうか?
そもそも「ゆのはな」はおとぎ話や奇跡を扱った作品ではなく、むしろ正反対のベクトルを持った作品だというのが私の見解でした。
この度、再びエントリーを読んで「実は『ゆのはな』は奇跡を扱っている鍵ゲーに対するアンチテーゼではないだろうか」という考えを抱きました。
しかし、私が鍵ゲーを最後にコンプしたのは3年前の「智代アフター」が最後で、以降アニメも含め鍵ゲーには触れておらず曖昧な部分も多々あり、また当時理解不足だった面もあり、本当にKeyが用いた手法は単純に「奇跡」と呼べるものなのだろうかという疑問が生じました。
そこで、こうして執筆しながら当時を思い出しつつ「Keyが扱った『奇跡』と呼ばれているものは何だったのか」を整理していこう思います。
Kanon
Kanonの奇跡の力の元となったのは幼い頃出会った月宮あゆに主人公が渡した天使の人形です。
この人形のおかげで、主人公は一つだけ願いをかなえることができます。
人形の持つ力自体は奇跡に分類されていいものですし、それによってあゆが救われることも奇跡と呼ぶにふさわしい現象です。
また、人形の力に頼ることがなくとも、あゆ以外のヒロインが救われるということも奇跡に違いありません。
しかし、この人形を見つけることができなかったり、あゆに使うことができなければ、彼女は主人公の前から消えてしまいます。
それは、あゆ以外のヒロインが助かるという事実の根底には「あゆが主人公の前から消える」という対価が存在しているということなのです。
このことから、メインヒロイン格であるあゆシナリオは純粋に奇跡を扱ったシナリオと考えることができますが、それ以外のヒロインについては「あゆ消滅」という対価を支払って手に入れた「代償」だと見ることができます。
Kanonの奇跡の扱い方は「奇跡と代償という二面性」を持っているのです。
AIR
佳乃ルートでは彼女を助けるために往人は力を失い、すぐ目の前にいた観鈴*1を救う可能性を失います。
また、美凪ルートでも彼女と関わることで町から去り、同様に観鈴を救う可能性を失います。
メインヒロイン格である観鈴を代償とすることで他のヒロインを救うという構造はKanonと変わりありません。
では、観鈴ルートではどうでしょうか。
彼女を助けるために往人は力を使い果たし、カラスに転生することになります。
彼女自身もゴールする代わりに命を落とします。
また、1000年前にさかのぼると神奈備命が死んだために輪廻が始まり、それを止めるために柳也と裏葉は法術を学び始めますが、結局彼女たちの代では神奈備命を解放することができませんでした。
それから1000年かけて*2、往人たちの代でようやく苦しみの輪廻から解放したのです。
このようにAIRの観鈴ルートはKanonのあゆルートとは違い、多くの代償を払いながら結末を迎えています。
Kanonはたった一人の代償により他のヒロインが救われました。
一方でAIRは多くの人間や年月を代償として、たった一人のヒロインを救おうとしたのです。
ここがこの二つの作品の大きな違いだと思います。
そしてAIRの奇跡の扱い方は、奇跡と呼ぶには重過ぎる呪いじみた「犠牲」の上に存在させているという性質を持っています。
CLANNAD
さて、CLANNADで死亡する人間は渚と汐の二人のみです。
しかし、どちらかを助ければどちらかが助からないという性質ではなく、どちらも奇跡の力によって助けることができました。
この奇跡を生み出す源となったのが「まち*3の光」です。
これは朋也が他のヒロインやサブキャラたちと接することでも生み出されています。
では、彼らが何かを失ったかというと、そうではありません。
彼らは何も失うことなく、奇跡の力を生み出したのです。*4
そして誰にも代償・犠牲を求めることなく、渚と汐は救われることとなりました。
あゆという代償を必要としたKanonや関わった人々を犠牲にしたAIRとは違い、CLANNADは「純粋な奇跡」を奇跡として用いた作品なのです。
智代アフター 〜It’s a Wonderful Life〜
朋也は亡くなりました。
これまでのように彼が生き返ることや救われることはありません。
しかし、これは奇跡を否定したり排除したということに繋がるのでしょうか。
例えば、こうした視点からこの作品を振り返ってみてはどうでしょうか。
事故により朋也は1週間経つと記憶を失う障害を持ってしまう。
1週間経つと記憶を失い、そしてリセットされた状態でまた1週間を過ごす。
智代はそんな彼に寄り添いながら甲斐甲斐しく介護を行う。
一度も愛していると言われないまま、自分のことを忘れられたまま。
しかし、最後の最後で彼は智代に対して愛を言葉にする。
そう、「奇跡的」に。
智代アフターでは確かに朋也の命は救われませんでした。
しかし、奇跡的に智代は彼から「永遠の愛」を受け取ることが出来たのです。
それはほんの僅かな「可能性」という奇跡だったのだと思います。
まとめ
Kanonではたった一人の少女の「代償」により生まれた奇跡で他の人間を救います。
AIRではKanonとは逆にたった一人の少女を救うために多くの人間が「犠牲」という奇跡を生み出します。
CLANNADではAIRとKanonのような犠牲・代償を否定して「純粋な奇跡」を起こします。
そして、智代アフターではこれまでのように朋也の命を救わない代わりに、3年間という長い1週間の中から拾い上げた「可能性」という奇跡が彼女の心を救ったのです。
前作で提示された奇跡を次回作で否定し、新しい奇跡像を作り上げる。
私はこれこそが「Kanon」から「智代アフター 〜It’s a Wonderful Life〜」まで描かれたKeyによる奇跡の軌跡なのだと思います。
あとがき
以上が「かつて鍵っ子だったアンチKeyによる鍵ゲー奇跡論」です。
いかがだったでしょうか。
面白かったと少しでも感じていただければ、書いた甲斐があります。
本当ならこの後リトバスに続けなければいけないのですが、残念ながら私にはクソつまらなかったので途中放棄しました。
興味がある人は私の代わりに考えてみてください。