「祝福のカンパネラ -la campanella della benedizione-」何故こうまで彼らを悪しき様に描かなければいけないのか?


祝福のカンパネラ 通常版

祝福のカンパネラ 通常版


最初に断っておきます。
私はこの作品の登場キャラはみんな好きです。
ですが、この作品自体は大嫌いです。





アバティーンは妹のミリアムを助けるためならどんなことでもやってのけると誓い、事実彼女の友人であるミネットを殺してでも彼女を助けようとした。
しかし、結局ミネットルートでは彼は死に、妹が助かることはないかと思われたが……。
アニエスの技術とアバティーンの残した知識で助かる道筋が見つかった。


アニエスルートでは壊れた天蓋の水車を直す術は晶石モンスターを暴走させるしかないとして、アルトワーズは自分が悪人になろうとも世界を救おうとした。
そんな覚悟をした彼女を主人公たちは「協力し合えば何とかなる」と信じ、倒すことで止めた。
結局レスターとアニエスの協力により天蓋の水車は直すことができた。



この二人に共通しているのは現時点ではアニエスやレスターでさえ適わない技術や知識を持っているということです。
そんな彼らがどうすることができなかったミリアムや天蓋の水車をあっさり直すことができるのは不自然じゃないでしょうか。
もちろん、これだけなら萌えゲーならよくある設定で、私も気にすることはありませんでし、もし気にしたとしても「この作品が大嫌いだ」とまでは言うこともなかったでしょう。


しかし、彼らに共通することはそれだけではありません。
アバティーンやアルトワーズが決心した覚悟は主人公たちに簡単に乗り越えられるほど軽いものだったということです。
「妹を救う」「天蓋の水車を直す*1」そのためには他人の命の犠牲は仕方ないと割り切った彼らは、何故最初から主人公やシェリーたち*2を頼るという選択肢を選ばなかったのでしょうか。
もし、彼らが手段を選ばず妹や世界を救おうとするならば、なりふり構わず自分だけの力で解決しようとせずに他人に頼るはずでしょう。
それなのに彼らは他人の力を頼らずに、他人の命を犠牲にするという方法に頼った。
そして主人公たちにその意志を否定され、倒され、しかし世界は救われた。
製作者たちは本当にこのシナリオで面白いと思ったのでしょうか。
本当に彼らの覚悟を本気で描こうとしたのでしょうか。



彼らが使命も正義もない、ただの小悪党ならかまいません。
しかし、彼らは少なくとも誇れるだけの覚悟はありました。
また、同じく道化の役を演じているトルティア姉妹は愛らしく描かれているのに、何故彼らは無様な選択肢をした惨めなピエロのような描かれ方になっているのでしょうか。
このように簡単に主人公たちに簡単に乗り越えられ、製作者たちからも踏みにじられる彼らはどこから見ても哀れな道化ではないですか。
私はそこに怒りを覚えているのです。
登場人物を好きな分、なおさら。


だから私は登場人物が大好きなのに、この作品自体は大嫌いなのです。

*1:ひいては世界を救う

*2:特にアルトワーズは彼女たちと同じクランなのだから