ネットの本質は多様な価値観に触れられることにある

ネットは信用ならない

ネットにあふれる情報に対する批判の多くが「情報が間違っている」「ソースがない」というものだと思う。
Wikipediaに誤りが含まれていると言われているのはもはや周知の事実だし、書いている人間が誰だか分からない以上いくらでも誤情報をウィルスのようにばら撒ける。
そして、情報が本当かどうかはある程度の専門知識を備えていないと見抜けないものが多いから、余計にタチが悪い。
嘘を見抜けるかという問題はどんなメディアにも当てはまるけれども、ネット上では記事が膨大すぎて一つ一つ検証しようという物好きな専門家はいないし、論文みたいに「追試によって確認されました」ということが発表されることも残念ながら見たことがない。
少なくとも、紙面で発表される文献は間違った場合の責任の所在をはっきりと示すことができるので、ソースとしては使いやすい。
ただ、そこで「だからネットはダメだ」と考えるのは思考停止している。
そもそも、ネットはダメだと決め付ける前に「なぜ人々はネット上で記事を展開するか」を考えなければならない。

だからネット上で文章は書き続けられる

ネットとその他メディアを分ける決定的な違いは「専門家でなくとも好きなように情報を発信できる」という手軽さ。
その気軽さでトラックバックを飛ばしあい、掲示板でコメント欄で話し合い、多くの人たちが意見交換を行っている。
誰にでも発言でき、誰からも読んでもらえる。
そして、そのプロセスはサイト外に波及して、例えばはてなブックマークのように、ソースのある記事・ない記事に関わらず多くの人が自分の興味を持った記事をブックマークに加えコメントを寄せている。
ネットで文章を書くことの本質はここに現れていると私は思う。
それは単純に「他人から注目してもらえる」という自己顕示欲だけではなく、「他人の思考・価値観にもっと触れてまわりたい」「他人とのやり取りで自分の思考を磨きたい」という、一種の知識欲・自己研鑽の表れではないだろうか。
他人の文章が面白いと思うのなら、それを自分に吸収させ、行動・思考に反映させればいい。
他人の考えが間違っていると思うのなら、なぜ間違っているのかを論理的に考え、それを相手に分かりやすく伝えるように文章を考え、それに対するレスポンスを受けてまた考える。
こうした繰り返しによって自分を成長させることができる。
そして、その輪を広げることによって巨大な集合知を作り上げ、さらに波及効果をもたらす。

インプットしアウトプットする、その間の過程こそネットでは必要とされている

文章を書くという結果だけ見るならば、ソースのない文章・検証のない記事は意味のないものだ。
しかし、少なくとも自分が他人とのやり取りで得られた論理的に答えを導く力・触れられた多様な価値観は決して無駄ではないし、ソースが正しいか・ソースがあるかもさほど関係ない。
スタート地点が間違っていたとしても、自分で道筋を考えてゴールを目指す力を鍛えること自体は間違いではないのだから。
「他人と言葉を交わすことによって、自分にはない多くの価値観に触れ、視野を広げ、自分自身の糧にする」
自分以外の人間に触れ、このプロセスを手軽に行える場であることこそが、ネットで情報を送発信することの最大の価値だと思う。
そして、同時にネットの持つ他メディアに対する優位性ではないだろうか。