「てとてトライオン!」は「こころ」ではなく「てとて」だからこそ意味があるんではないかという話

てとてトライオン!  通常版

てとてトライオン! 通常版

ラジオ&合同レビュー企画第二弾『てとてトライオン!』 - 猫拳@はてな
この企画のためにてとてトライオン!について考えたことをまとめてみる。
議題の叩き台になれば。

気になる点

そもそも、トライオンに出てくる設定は不完全なものが多い。
獅子ヶ崎学園は稼動していない設備が多く、トライオンのシステムは解明されていないことばかり。
加えて作中の描写は、モブキャラたちの動向*1の描写が少なく、ほとんど主人公とヒロインに関係のあるイベントしか描かれていない。
モブキャラとの交流が少ないとも言い換えられる。

トライオンはディスコミュニケーションの象徴

作品のタイトルどおり、手と手を繋いでトライオンすることで、彼らは心を重ねることは出来る。
でも、何故わざわざ手を繋がなければいけないのか。
心を繋げるだけなら非接触型でも十分ではないのか?
ならば接触型にこだわる理由があるのではないのか。


トライオンの特徴は心に触れ合えることだけれども、それに惑わされてヒロインとすれ違う場面も作中にはあった。
その解決手段はトライオンをすることではなくて、実際にヒロインと顔を合わせて、言葉を交わして、そして身体を触れ合わせること。
獅子ヶ崎の声ルートでも、トライオンの目的は心に触れることを目的としておらず、トライオンの掛け声を全員で叫ぶことで、共通となった目的の達成感*2を共有化することにある。
それは方向性や心にすれ違いがあっても、同じ時間と空間を物理的に共有することで、一瞬でも一体化できるということを表しているんじゃないだろうか?
無理矢理「こころ」に触れ合わないでも「てとて」を合わせれば一緒になれる、もしくは「こころ」に触れ合う以上に理解しあえる。
ならば、トライオンのシステムはコミュニケーション手段ではなく、ディスコミュニケーションを浮き彫りにさせるシステムではないだろうか?

「主人公とヒロイン」が成立するのは個別ルートの中だけ

モブキャラの描写が極端に少ないのは気になる。
モブキャラとの交流が少ないということは、主人公の生活範囲や意識が非常に限定的ということ。
実にエロゲらしい主人公だけれども、この作品の場合、そのキャラ設定は正しいのだろうか?
もし、この主人公を肯定するのなら、獅子ヶ崎の声は個別ルートで姿を現していてもおかしくない。
しかし、作品の締めとなる獅子ヶ崎の声ルートを見る限り、視点が一気に学園全体に広がっていて、そうしたキャラ設定では不適切。
また、わざわざ全学園生を鬼ごっこに参加させたということは、獅子ヶ崎の声は主人公達だけではなく学園生と遊びたかったということになる。
ならば、獅子ヶ崎の声にとって主人公達は、たまたまトライオンにアクセスできただけ・夏海という巫女の近くにいただけのモブキャラということになる。
獅子ヶ崎の声側から見ると、主人公とヒロイン達は「主人公」でも「ヒロイン」でもない、その他大勢の一般人。
以上を踏まえて、てとてトライオンを俯瞰すると、天岩戸から引っ張り出されたのは獅子ヶ崎の声のように見えるけれども、実は主人公とヒロイン達ではないだろうか。

もしメッセージ性があるならば

もし「主人公=プレイヤー」ならば、「ヒロインばかり見ていないで、モブキャラも見ろよ」というメタ的なメッセージなのかもしれない。
トライオンのシステムも加えて考えるのならば、「画面の中ばかり見ていないで、外に出て他人と触れ合えよ」と。

*1:例えば学園祭

*2:お祭り騒ぎ