「こなたよりかなたまで」は結局どういう作品だったのか リライト 〜あるいは、願望上の出来事〜

はじめに

もう書くことは無いだろうと思っていた「こなかな」について、再び筆をとってみる。

これまでに書いたこなかな関連記事
「こなたよりかなたまで」は結局どういう作品だったのか
「こなたよりかなたまで」で一番リアリティの無い部分はクリスの存在でもなく、彼方の行動・思考でもない

信者になることは簡単だけれども、信者であり続けることにはエネルギーがいる。
そのエネルギーはただ飽くなき作品への愛だけによって生まれる。
私はもうしばらく、この作品の信者でい続けたい。
だから書く。



「迷子」として描かれる彼方像

“迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのお家はどこですか?”
彼にはそう言って手を差し伸べてくれ、一緒に困ってくれる犬のおまわりさんが周囲にはいなかった。
この作品には、ただの一人も「大人」がいない。
彼には耕介のような手を借りることの出来る友人はいる。
しかし、両親も死に、彼は天涯孤独の身。
ヒロインでただひとりの大人あるいずみは、逆に彼にすがってしまった人間。
彼自身を委ねることの出来る大人はどこを見渡してみてもいなかった。


彼はたった独りで死の宣告を受け、たった独りで悩み、たった独りで最期を受け入れようとした。
その行為を間違っていると諭してくれる人はいない、泣いてもいいと胸を貸してくれる人もいない。
周囲に多くの人はいた。
でも、委ねることができ、甘えることができ、そして彼を支えることのできる「大人」という存在は一人としていなかった。
彼は子どもでありながら、たった一人で自らの最期に向かい合わなければいけなかった。


心を許せる人がいないということ、それは他者を拒み人知れず孤独死をする老人に似ているのかもしれない。
だが、老人と決定的に違うことがある。
彼はたった十数年しか生きられなかったのだ。
人は年老いた自分を自覚し、先に逝く知人たちを認めることで自らの死を意識し始める。
そして何年もかけてこれまでの人生を振り返り、整理をする。
それが死を受け入れていく過程であり、儀式である。
しかし、彼はまだ若い。
たった十数年の人生を振り返り、しかもわずか数ヶ月で死を悟り、そして死んでいかなければならない。
立ち止まっている暇はない、常に考え動き続けなければならなかった。
誰からも支えられず、独りで。


こんな過酷なことはあるだろうか。
板橋先生は彼にこう言う。
「君は根性がある」
違う、泣いても喚いてもどうにもならないのだ。
そして、そんな無駄な時間があるのならば、死をどう受け入れるか悩まなければいけないのだ。
彼には逃げることすら許されていない。
例え間違った別れの準備でもやらずにはいられなかったのだ。


そしてそれに気付いていない振りをする。
気付いてしまえば、動けなくなるから。
彼が一人で悩み苦しみ、そして自分の進むべき道を決めてしまったのは必然だったのだ。

「迷子」の肯定

しかし、そんな彼の死生観をこの作品は最終的には否定していない。
ただ、それを語るには、この作品のテーマについて語っておかなければならない。


そもそも、この作品の最終的なルート、つまりTrueルートはいったいどのルートであろうか?
クリスTrueルート*1と佐倉ルートのどちらがTrueルートかという話題がかつてあったが、私はクリスTrueルートを推したい。
在りたいように在ることの難しさを冒頭で示しているが、優ルートと九重ルートは彼自身の在りようについては何の変化・揺らぎがないという点で、この二つがTrueであることはない。
その在りように揺らぎが生じているのは佐倉ルートとクリスNormal・クリスTrueルートだが、佐倉ルートでは彼の在りようは真っ向から佐倉によって否定された。
対して、クリスTrueルートでは「在りたいように在る」という彼の生き方をクリスと彼方の共通点、つまりヒロインと主人公が結びつく拠り所として昇華させている。
つまり「一人きりで死ななければならない迷子」と「一人きりで生きなければならない迷子」という背中合わせの二人の生き方がどのように交わり、そして共に歩き出すか、その一点を描くためだけに他のルートや背景設定が描かれているという見方もできるのだ。
そして、それは不器用ながらも、間違っていながらも歩き続ける彼方でなければ救うことのできないヒロインもいるということも示している。


クリスNormalルートで彼自身の生き方に健気に寄り添うヒロインを描き、優・九重ルートで彼の生き方により救われたヒロインを描く。
そして佐倉ルートで一度彼の在りようを否定してみせ、クリスTrueルートでその在りようこそが同じ在りようを持つヒロインを救うことを描く。
主人公の価値観を否定するルートと価値観を彼だけのものではなくヒロインと共有できるものとするルートの二つがあって、一方をテーマとして、もう一方をテーマを描くための足がかりにしなければいけない。
物語の美しさを追求するならば、価値観を共有する方が気持ちよく作品に浸れることができる。
だから、こなかなのテーマは彼方の死生観だと考えると佐倉ルートがTrueである可能性もあるが、そうではなく、物語としての美しさをテーマとして優先するならばクリスTrueルート以外は考えられない。
そして、わざわざ吸血鬼設定というファンタジー要素を取り入れた理由も加えて考えると、やはり物語としての美しさをテーマとし、クリスTrueルートこそがTrueであるという結論に帰結する。


こうして「迷子」の存在はクリスという背中合わせのヒロインとの邂逅によって肯定された。

パッケージに描かれた光景

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新装版のパッケージには彼方をはじめとする学園に通う面々が描かれている。
しかし、あの絵のようなシーンは作中では出てこない。
ただの下校風景だと言ってしまうこともできるが、これについても考察していきたい。


作中で描かれていないが、描かれているのが作中の未来だと考えると一つだけその可能性のあるルートがあり、それは彼の在り様が認められたクリスTrueルート。
彼自身が“彼方”として生きていくことを認め、“彼方”として生きることを周囲から認められている唯一のルートだからこそ、この絵が存在する可能性がある。


しかし、この絵には登場人物であるいずみと優が描かれていない。
それは何故か?
そもそも優は彼方によって救われた女の子だけれども、本当に彼女を救える存在は彼女の祖父だけで、彼はきっかけにしかすぎない。
いずみにいたっては彼の存在は慰めにはなったけれども、救いにはなっておらず、今後も彼が救いになることはない。
一方で絵に描かれている面々は彼の影響を直に受けていて、佐倉以外のヒロインは彼の存在が救いになっている。
佐倉は佐倉で彼の生き方を否定する役割を担っていて、彼というより物語自体にとって重要な人物であるということは前章ですでに述べた。
いずみと優だけが彼方の影響から独立しようとしている、もしくは独立している。
ここから導き出せるのは、あの絵は彼を取り巻く人間関係の象徴なのではないだろうかということだ。
クリスTrueルートの未来を描いているあの絵には、自分自身の生き方を肯定した彼方にこの先影響されないあの二人を描く必要はないのだ。

「こなた」と「かなた」の意味

タイトルやクリスルート、EDテーマにもなっている「こなたよりかなたまで
これが示す意味は何だろうか。

  1. 近称の指示代名詞。ある地点より話者のいる地点に近い場所・方向などを示す。こちら。こっち。
  2. 二人称の人代名詞。あなた。
  3. 近称の指示代名詞。過去または未来の一時点から話者のいる現在へ向かっての時間。
    • それからのち。以来。
    • それより前。以前。
  4. 三人称の人代名詞。今話題になっている人。また、近くにいる人。
  5. 一人称の人代名詞。わたくし。


出典
Yahoo!辞書 - こ‐な‐た【此方】より

  1. 話し手・聞き手の双方から離れた場所・方向をさす。また、現在から遠く離れた過去・未来を示す。あちら。あっち。
  2. ある物に隔てられて見えない場所・側などをさす。向こうがわ。


出典
Yahoo!辞書 - か‐な‐た【彼方】より

EDテーマは歌詞の内容やどのルートでも使われているということから「こなた=死んでいく私」「かなた=生きているあなたがいる向こう側」、もしくは「こなた=生きている私」「かなた=彼方」と両方の意味でとることができる。


クリスNomalルートでは彼方に献身的に寄り添うクリスの姿が描かれているので、このルートでは「こなた=クリス」「かなた=彼方」という解釈ができる。
一方、クリスTrueルートでは彼方の生き方に救われるクリスが描かれていて、「こなたよりかなたまで」というフレーズの前に「あるいは、」とも付け加えられている。
となるとクリスNomalルートと逆の解釈をすることができ、「こなた=彼方」「かなた=クリス」となる。


そして、この作品のタイトルである「こなたよりかなたまで」の場合は?
「タイトルに使われているからEDテーマと同じく普遍的な意味」と考えることも出来るが、それではここまで長々と考察してきた意味がない。
もう一度「『迷子』の肯定」の論旨を振り返ってみると、また別の見方をすることができる。
つまり、「こなた=物語の始まり」「かなた=在りたいように在る彼方の生き方」として、作品の始まりからクリスTrueルートに収束するまでの一連の話の流れを示している。
彼方が回り道しながらも否定されながらも、少しずつクリスとの交点へと収束していくシナリオを的確に表している美しいタイトル名だと思う。

参考
こなたよりかなたまで
唄:MOMO
作詞:KOTOKO
作曲:中沢 伴行
編曲:羽越 実有& 中沢 伴行


瞼を閉じれば遥かな歌声
この地上に降りた淡い面影
広い胸に耳澄まして幸せの数数えた
限りある音に震えた想いだけ抱きしめ
忘れないで…
二人の記憶 今ここで巡りゆく
忘れないよ…
陽光のような君が笑う風の匂い


滑らかに続く朝焼けの轍
あれは不器用で落とした涙
止められない時計の針
悔しくて何度折った
絶えまなく輝く星の優しさも見えずに
ここに生きて…
無限の天は まだきっと続いてる
ここで生まれ
君が選んだこの朝日の目映さよ


忘れないで…
幾年月の夢 春の聡明さ
ここに生まれ
桜に降りた君の願い 彼方まで
D

Imaginary affair

最後にOPテーマである「Imaginary affair」が指し示す内容について。
この歌詞自体が曲名の日本語訳の通りに「想像上の出来事」と素直に考えることも出来るが、ただそれだけの意味しか持たないと考えるのならばここで取り上げる必要はない。
この歌詞のように穏やかな日々は確かに作中では描かれていないが、この歌詞が存在する未来が可能性として残っているルートが唯一つある。
それはやはりパッケージの絵について触れた時と同じく、クリスTrueルートだ。
繰り返しになるが、彼自身が“彼方”として生きていくことを認め、“彼方”として生きることを周囲から認められている唯一のルートだからこそ、未来を穏やかに過ごしていく可能性が残っている。


しかし、ここで一つ忘れてはならない事実がある。
この作品は吸血鬼というファンタジー要素を取り入れなければ成立しない物語であり、同時に現実の世界ではこのような救いがもたらされることはないということだ。
クリスがいなければ、物語は佐倉ルートで終わってしまい、結局彼の生き方は否定されたままとなってしまう。
それを防ぐために、そこから美しく昇華させるために、クリスという非現実的な存在は存在している。
つまり、この作品・作中で描かれている物語・物語としての根幹は想像上の中でしか存在することのできない幻であり、まさしく「Imaginary affair」に合致している。


だからこそ、この作品で描かれる主人公像は歪でありながら、作品全体は現実ではありえないほど美しく描かれている。

参考
Imaginary affair
唄:KOTOKO
作詞:KOTOKO
作曲:高瀬一矢
編曲:高瀬一矢


陽だまりに揺れた 白い風
おはようの精が窓に降りた
生温いスープ飲み干したら ほら
新しいシャツ着て出掛けようよ
転がる坂道に不安抱いて
しゃがみ込む背中を
ひよどりの声が撫でてく
ここから見える明日を追いかけていたい
小さくたって汚れてたって他にはない
遠く広がる丘に登りつめた時
何よりも輝いて僕等を照らし出すから


雨粒に濡れて傾ぐ花
まるであの時の君のようで
虹色の傘を差し掛けてみた
また笑顔を取り戻すといいな
長過ぎる坂道 空は遥か
すり変わる景色に行き先も見失うけど
ここから見える明日にエールを贈ろう
切なさだって淋しさだって胸の波動
降り止まない雨などここにはないから
僕にだけ頷いて その涙もう拭きなよ


振り返る坂道 時に泣いた
弱虫な僕等の足跡に花が咲いてた
ここから見える明日の絵日記描こう
平凡だって歪んでたって それが証し
何気ない顔をした朝日に会えたら
そよ風の真似をして この道歩いてゆこう
D

あとがきにかえて

クリスがやってこなければ、彼方は死ぬ直前まで悩み、迷い、後悔していただろう。
彼女との出会いがきっかけで、ようやく彼は自分の信じる在りようへと回り道をしながら近づいてゆく。


クリスルート「こなたよりかなたまで
彼は一緒に彷徨って欲しいと差し出された手を振り払って、


九重ルート「ラストダンスを私に」
ふと出会った同じような迷子と一緒にしばしのときを過ごして、


いずみ&優ルート「ゲームの達人」
ひと時の安らぎを得て、そしておそらくそのまま歩き続け、


佐倉ルート「この素晴らしき世界」
一緒にいると差し出され、いらないと振り払った手を握り返されて、


クリスTrueルート「あるいは、こなたよりかなたまで
そして、大切な人たちを自覚し、背中合わせの彼女を思い出す。



始まりはたった独りの物語。
寂しい寂しい物語。
それでも、ぐるぐると、迷いめぐっていつか辿り着く。
こなたよりかなたまで

*1:ルート名はいつも参考にしている攻略サイト愚者の館の記載に基づく